ザ・HISTORY-写真で見るダイフク史ボウリングブームの波に乗り急成長

1960年代前半から、日本ではボウリングが人気となりました。1972年にはボウリング人口が1,000万人に達し、ブームは頂点に達しました。このボウリング熱を支えたのが、ダイフクのボウリングマシンでした。
当時、米国で先行してボウリングが流行しており、「米国で流行することは必ず日本でも流行る」と予測し、米国のボウリングメーカー、ボウル・モアー社と技術提携。1万枚にもおよぶ図面を入手し、ボウリングマシンの国産化に乗り出しました。そして1963年、竣工したばかりの小牧工場(現・小牧事業所、愛知県小牧市)で国産1号機を完成させました。ボウリングマシンはコンベヤと自動制御を組み合わせた一種のマテリアルハンドリング・システムで、コンベヤなどの受注品とは異なり、計画生産品であることが経営上の魅力でした。
ボウリングマシンは全国各地のボウリング場に納入されましたが、なかでも圧巻だったのが、当時世界最大といわれた東京の品川ボーリングセンター(120レーン)でした。開場式では池田勇人首相のご息女による始球式に続いて、100人を超す選手が一斉にボールを投げ、すべてのボウリングマシンが始動。その様子は「実に壮観で、感動的だった」そうです。
ボウリングブームという追い風を受けてボウリング事業は順調に拡大。ピーク時には売上高の70%以上を占めるまでに成長しました。その後、ボウリングの人気は急激に冷え込み、売上高や利益も大きく落ち込みましたが、それまでに得た利益を生かして、現在のマザー工場がある滋賀県日野町に広大な工場用地を確保するとともに、コンピュータやエレクトロニクス分野に先行投資。将来を見据えた対応を着々と進めたことが、ダイフク飛躍の原動力になりました。ブーム終息後は、本来のマテハンシステムに特化した事業活動に回帰しています。

- ※当記事は『日に新たなり ダイフク50周年史』などの内容をもとに再構成したものです。